青木 繁 あおき しげる |
1882年、7月13日、旧久留米藩士・青木廉吾の長男として、
福岡県久留米市荘島町に生まれる。
そして、久留米中学明善校(現在の福岡県立明善高校)に入学。
このころ、母方の医師の伯父から画の手ほどきを受けていた。
1899年、17歳で上京。このとき島崎藤村「若菜集」をもっていったといわれる。
ヨ−ロッパの世紀末芸術に通じる浪漫的傾向をもともともっていた。
小山正太郎の主宰する不同舎に入門。
1900年東京美術学校西洋画科選科に入学し、黒田清輝らの指導をうける。
同期に熊谷守一、和田三造など。
在学中の1903年、白馬会第8回展に「黄泉比良坂」などの神話画稿10数点を出品し、
その作品の中にある理想主義的なところを認められ、その年から設けられた
白馬会賞を受賞して、華々しくデビュ−した。
1904年、東京美術学校を卒業。坂本繁二郎、森田恒友、福田たねらと
房州(千葉県)布良ですごし、このとき「海の幸」など、海を題材にした作品を制作した。
1906年冬から福田たねの実家(栃木県水橋村)に滞在した青木は、
「わだつみのいろこの宮」をかきあげ、作品を持って上京し、1907年3月
東京府勧業博覧会に出品した。青木の大きな期待に反し、3等末席であった。
白馬会受賞と、「海の幸」が好評を得たあとは全く認められなかった。
8月には父危篤のため久留米に戻ったが、家族と衝突して放浪生活に入り、
福岡、佐賀を転々とする。
1910年に喀血し、福岡松浦病院に入院。1911年 3月25日死去。28歳。
青木繁が見られる施設、美術館 | |
青木繁記念館(久留米市荘島町) | 石橋美術館(久留米市) |
梅野美術館(長野県) | 福岡県立美術館 |
主な作品
海の幸 明治37年(1904) 重要文化財 石橋美術館所蔵 明治37年、友人の画家 坂本繁二郎、森田恒友、 恋人の福田たねとの1ヶ月半の 千葉県布良海岸滞在中に描かれた 青木の代表作です。 |
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温泉 1910年 佐賀県古湯温泉 で描かれた。 晩年の佳作 |
わだつみのいろこの宮 明治40年(1907) 重要文化財 石橋美術館所蔵 「古事記」上巻の綿津見の宮の物語 を題材とした作品です。 兄の海幸彦からかりた釣り針を なくした山幸彦が、釣り針を探して 海底にある「魚鱗(いろこ)の如く造れる」宮殿へとくだり、画面向かって左の トヨタマヒメ (豊玉毘売)とその侍女に 出会う場面が書かれています。 |
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「漁夫晩帰」 ぎょふばんき |
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大穴牟知命 明治38年(1905) 石橋美術館所蔵 「古事記」上巻にあるオホナムチノミコト (大穴牟知命・大国主命)の受難の 物語を題材としたものです。 この絵を見る私達と視線を交わすよう に描かれたウムギヒメ (向かって右側の女性) の顔の描写が、本作品に生気を そえていると云えます。 |
入院した、青木 繁は、つる子、たよ子姉妹宛に次のような書翰を残しました。 『(前略)小生も今度はとても生きて此病院の門を出る事とは期し居らず、 深く覚悟致居り候に付、今の中に皆様へ是迄不孝不悌の罪を謝し併せて 小生死後のなきがらの始末に付一言御願申上置候。 小生も是迄如何に志望の為めとは言い乍ら皆々へ心配をかけ苦労をかけて 未だ志成らず業現はれずして茲に定命尽くる事、如何ばかりか口惜しく残念 には候なれど、諦めれば是も前世よりの因縁にても有えべく、 小生が苦しみ抜きたる十数年の生涯も技能も光輝なく水の泡と消え候も、 是不幸なる小生が宿世の為劫にてや候べき。されば是等の事に就いて最早 言ふべき事も候はず、唯残るは死骸にて、是は御身達にて引取りくれずば致方なく、 小生は死に逝く身故跡の事は知らず候故よろしく頼み上候。火葬料位は必ず 枕の下に入れて置候に付、夫れにて当地にて 焼き残りたる骨灰は序の節高良山の奥のケシケシ山の松樹の根に埋めて被下度、 小生は彼の山のさみしき頃より思出多き筑紫平野を眺めて、 此世の怨恨と憤懣と呪詛とを捨てて静かに永遠の平安なる眠りに就く可く候。 是のみは因縁ありて生まれたるそなた達の不遇とあきらめ此不運なりし繁が一生に 対する同情として、是非是非取り計らひ被下候様幾重にも御願申上候(後略)』 このようにして、放浪の末に、青木繁は二十八歳という短い生涯を終えました。 ケシケシ山は、耳納連山兜山の通称です。 遺書となった手紙からけしけし山には、坂本繁二郎らの手によって碑が建てられ、 毎年命日に近い3月下旬には、その画業をしのぶ人々が集まり、「けしけし祭」が行われます。 兜山の歌碑 「わが国は筑紫の国や白日別(しらひわけ)母います国櫨(はぜ)多き国」 の歌碑が建っています。 |