久留米城と荘島(庄島)の歴史

西 暦 元 号 出 来 事
1504年 永正 1年 地方の豪族が笹原を切り開き城(砦)築いたのが始まり言われて、
当初は笹原城と呼ばれていた。天正年間の始め高良山勢力の
出城となり久留米城と呼ばれる。
1587年 天正15年 豊臣秀吉、島津を討つために高良山吉見岳に本陣を構える。
毛利秀包、久留米城主となる。(7万5000石)
1592年 文禄 1年 朝鮮出兵、文禄の役の軍功により13万石となる。
1600年 慶長 5年 関が原の戦いに敗れ、秀包は封を失う。
1601年 慶長 6年 田中吉政、筑後の国を支配、柳川城主となり、領内(福島、高尾、
榎津、城島、赤司、久留米)を文治し支城を置き、次男主膳正則
を久留米城主とする。
1603年 慶長 8年 徳川家康、征夷大将軍となる。
久留米~柳川間の道路開通。
1621年 元和 7年 有馬豊氏、久留米城主となる。21万石、人口13万650人
1637年 寛栄12年 島原の乱起こる。久留米からも出兵。
1638年 寛永15年 筑間川を筑後川と改名。
1669年 寛文 9年 筑後川大洪水。
1681年 天和 元年 藩札発行。
1696年 天録 9年 久留米の大火。庄島より出火、米屋町、両替町等を焼き、
櫛原村入り口まで焼ける。
1717年 享保 2年 京町より出火。瀬の下大火、150軒焼失。
1721年 享保 6年 二ツ橋仕置場出来る。
1722年 享保 7年 二ツ橋地蔵堂建立。牢屋敷を狩塚御門内(市役所付近)より
庄島小路(荘島小学校付近)に移転。
1724年 享保 9年 原古賀町火事で200軒焼失。
1726年 享保11年 城内より出火。両替町、呉服町、三本松、原古賀町、庄島等
4,230軒焼失。
1728年 享保13年 藩の増税に反対し、享保の一揆起こる。
1746年 延享 3年 洪水、藩内ききん起こる。
原古賀町より出火。26軒焼失。
1750年 寛延 3年 二ツ橋刑場を、きゅう首、はりつけ、などすべての斬罪場に決める。
1754年 宝暦 4年 宝暦の大一揆起こる。(百姓一揆の中でも日本有数の規模)
人頭税(8歳以上への人別銀)に怒った百姓が、全郡から10(6)
万人参加、37人処刑者を出す。
1805年 文化 2年 庄島足軽屋敷より出火。209軒焼失。
1809年 文化 6年 瀬の下より出火。通町、大石町、京町など179軒焼失。
1828年 文成11年 6月大洪水。藩倒潰家屋6,338軒、死者268人。
1829年 文政12年 庄島大火。477軒焼失(士家110軒、寺7ヶ寺、町屋355軒)
1832年 天保 3年 亀王組の一揆起こる。
1833年 天保 4年 9月庄島より出火。1,839軒焼失。
大飢饉、1839年まで続く。
1868年 明治 元年 明治維新。10月大政奉還。
1873年 明治 6年 篠山城、廃城となる。
1875年 明治 8年 やぐら、御殿、多門など、解体が終わる。大手門を始め、
13の城門があったが、現在日輪寺・本寿寺にそれらの
門が残されている。
1879年 明治12年 篠山神社が建立される。